交通整理

 10月19日のコメント欄に、jam_ojisanさんよりアイデアをいただく。ひきこもりの問題を考えるのに、「長期的目標」と「短期的目標」とを設定した方が良かろう、というのだ。これは名案。今後、議論を整理するのに役立とう。
 個人的には、「ひきこもり」の苦しみは、まさにこうした「未来設計」が不可能になっている点にあると思う。それは単なる病理性というのではなくて、ひょっとしたらそこに本質的な問題があるのかも。
 ひとまず、その問題設定自身、「長期・短期」のご指摘がなければ考えなかった。ありがとうございます>jam_ojisanさん。



原点

 自殺を考えるメールマガジン「パティオ」が届く。いつになく身に染みる。リンクをたどってHP「自殺するの?」へ。自殺しようとしている人も、それを止めようとしている人も、よく考えるとありきたりなことを言っているのだと思うが、でも苦しみなんて、「オリジナル」はそうそうないんだと思う。とても陳腐でありきたりなシチュエーションが、だけど本物の激痛を持っている。
 実は僕の苦しみなんて、自殺しようとしている人の中ではありきたりなんだと思う。自殺志願者の言葉の中に、いくつか僕の苦しみが言語化されているのを見る。
 これはややこしい問題の文章化を試みる人がみな感じることなのかもしれないが、ひきこもりについて考えていると、本当にやりきれない気持ちをいくつも味わう。孤独だなぁ、と思う。当事者が味方だなんてかぎらない。ぜんぜん関係ないと見えた人が素晴らしい言葉をくれたりもする。
 今日もひきこもりについて考えてみるが、「消えたい」というのが自分の原点ではなかったかと、思い直しながら。

投げる場所か、入る場所か

 ひきこもりについては、いろんな人がいろんなことを言う。ひどく罵倒したり、熱っぽくあこがれを語ったり、自分の思想をそこに仮託したり。要するに「ひきこもり」は、人がそこに自分の話を投げ込むフレーム(枠組み)なんだと思う。
 僕は僕で、そのフレームを通じてものを考える。他の人にとっては、「ひきこもり」はそこに向けて言葉を投げつける場所かもしれないが、僕にとっては「そこを通って世界に出てゆく場所」、その入り口なのかもしれない。

社会的不能性としての詩的なもの

 「ひきこもり」という言葉で、自称他称の「ひきこもり」全てをカバーできるとは思わない。僕は僕の切り口で考えるしかない。
 ある作家が、「芸術と人生」という言い方をしていた。芸術への尽きせぬ衝動と、でも「食っていくためには」しなければならないことと。自分の抱えた病やこだわりと、「就職したり商品を作ったりして稼がなければならない」という要請と。ゴッホ、エミリ・ディキンソン、カフカ、など。生きている間に「売れ」なかった人たち。
 ひきこもっている人みんなに芸術的才能があるわけではない。あたりまえだ。でも、芸術家たちの社会的インポテンツを巡って考えられたことどもは、「ひきこもり」を考える上でも参考になると思う。*1
 その意味で、実は詩人の、あるいは詩的なものの命運が気になっていたりする。それが「食える」のかということ、あるいは、そのピュアリティの政治性、といったこと・・・・。僕らは徹底して散文的であるべきなんだろうか。*2

     世俗の業に満たされて
     しかれども詩的にこそ
     ひとは此岸に棲む




*1:そう言えば、僕が京都で地域通貨に関わったとき、アーティストたちが熱心な関心を寄せてくれた。オルタナティヴな生き方、を真剣に模索するのは、やはり「この社会に居場所がない」と感じている人たちだ。

*2:以下の詩はヘルダーリン。渡辺哲夫『シュレーバーISBN:4480842306