ブライアン・D・ジョセフソンー天才科学者のシルエット

趣味がウォーキングとハイキングの教授に「一番好きな歴史上の科学者は誰ですか?」と訪ねると、少し考えてからきっぱりとこういったのである。「ジョン・ベルです」ーベルの定理で有名なジョン・ベルであった。私はその言葉で、ジョセフソン教授の天才を垣間見た感じがしたのである。

名誉の数々も広告減に勝てず LAタイムズが人員削減

 米ピュリツァー賞という名誉の数々も、広告収入の落ち込みには勝てなかった。今春、同賞の5部門を制覇してジャーナリズム界をうならせたロサンゼルス・タイムズ紙は22日、広告減を理由に記者約60人を含む160人を人員削減したと、紙面で明らかにした。

 うなるものがあるなぁ。
 日本の新聞とは大違いだな。っていうか、違いすぎ。
 統一教会関連でもすでに米国ではブログが優勢、つまり、新聞は落ち目か。

パイプライン1本の修復が完了、輸出再開も イラク

残る1本のパイプラインも修復が進んでおり、今週半ばまでには原油輸出が日量160万バレルと、従来のレベルまで戻る可能性が出てきた。

 ふーん。

フッサールの洞察としての数量化

 通常、我々が自然科学だと思っているのは、フッサールが見抜いたように数量化である。
 あるクオリティがクラスの定義によって、つまりその内在のプロパティによってクオンティファイされる…数量化されることで、操作可能になる。オペラブルになる、というモデルができることが我々の文明にとって、自然科学なのだ。定義ではない、フッサールはこうした科学者を馬鹿者と思っているのだ。
 落下現象や光子の運動は数量化されたモデルとして記述ができ、「理論」ができる。同様に、経済学や社会学も数量化によって理論ができ、その理論を使って、反証性が確かめられるかのような…幻想を抱く。
 しかし、数量化されたモデルはあくまでモデルしかなく、その妥当性は理論内の命題による構成との関係で常にトートロジーだ。
 自然科学のほうは、基本的に、自然を対象化し、センスデータとしてそれを支配しようとする人類の意図、というか、生物というのはそういう存在なので、そうしているのだが、がだ、社会科学がこれを偽装するとき、とんでもねーことが起きる。
 結論を言えば、人間の支配の意図が、先験的に組み込まれてしまう。
 例えば、日本は少子化である。少子化の傾向は数量モデルができる。そして、各種のモデルから、かなり妥当なモデル…そのモデルはパラメーターを操作することで少子化を阻止できるモデル…も可能になる。で、このモデルは、いかにして正しいのか?
 やってみるっきゃないでしょ。だ。その意味は、なんとおぞましいかということに気が付かなければ馬鹿だ。
 とはいえ、こうした偽装された社会科学があたかも自然科学のように振る舞うことがある。マクロ経済学などもそれ臭いが…価格と通貨量などトートロジーでその意味で無意味なのだが…ということはどういうことなのか?
 たぶん、我々の「生」の構造における機械性を意味しているのだろう。それを、自然科学は自然性と呼ぶわけだ。
 この問題は、まさに、ウェーバーマルクスだよな。

「価値自由論」(大塚久雄著「社会科学における人間」p.214-6)

そうしたまったく異質な文化体系における人間行動の意味を、いったいどうやって分かることができるのか。これは非常に難しい問題です。しかも、このむずかしさは、対象的視野が世界的に広がっていけばいくほど、ますます大きくなっていくでしょう。
 ところで、ヴェーバーの有名な「価値自由論」(ヴェルトフライハイト)は実はその解答を意図するものなのです。もちろん「価値自由論」が内包する問題はこれに尽きるのではありませんが、少なくともこれから話すことがらは「価値自由論」の一つの中心をなしている、と私は思います。それはこういうことなんです。研究者はある特定の文化を身につけている。その価値観的立場を決して捨てるわけではないが、ただ理論の上で、まったく異質な文化状況のなかに身を置き、それに属する人々の世界観なり価値観の立場に立って、つまり、理論の世界で想像力の翼を借りて、そういう異質な文化状況の中にある人々の立場にかりに身を置いてみて、自分ならばこういうばあいにはどのように価値判断し、どのように行動するかを考える。そこに現れてくるさまざまな行動の軌跡、それに照らして、異文化に属す人々の行動の意味を理解していく。そういうことだと思います。そういえば、アダム・スミスも「想像の上で立場を取りかえてみる」といったようなことを言っておりますね。まさに、異文化間でそれを行うことなのです。
 もちろん、ヴェーバーのばあい、理論の上で異文化に属する人々の価値的立場に立って価値判断を行ってみると言っても、自分の現実の価値的立場や価値判断を放棄するわけでは決してありません。自分の現実の価値的立場や価値判断はあくまで保持しながら、理論の上では、 かりに異文化に属する人々の立場に立って考えてみる、そういうことができる自由がヴェーバーの言う「価値自由」なのです。それはそうと、異質な文化に属する人々の行動様式を研究する場合には、研究者はなによりもまず、相手の身になって、相手の考えや行動の意味を内側から理解しようとする、いや、そういうことのできる「心情」をもたねばならないし、さらにそうした心情を学問的な方法意識にまで高めていかなければならない。それを教えてくれるのがヴェーバーの「価値自由論」だと私は考えています。

 これが社会学の最大の基礎。というか、現代的には、理解社会学とかなるのだろうか。
 ここで重要なのは、相手の心情をくみ取るのではなく、理念化されたモデル=理想型、を使うところだ。
 つまり、理想型という方法論を使って、その中で人間の心を動かす自由を持つことが社会科学の最大の基礎であり、意義なのだ。
 自然科学では、ニュートン力学のモデルのなかに思いを入れることはできない(ニュートンは入れているのだが)。
 ここで、昨今、ネットで若い人の思想を見るに、ダメだなぁと思うのは、自然科学論の最大の基礎がまるでなってない。
 ニュートン力学アインシュタイン特殊相対性理論のどちらが正しいか?、みたいな議論はまったく無意味。というのも、どちらも、それぞれのモデルが構成した宇宙に対する理論であり、それは、本当の宇宙に対する近似的な目論見でしかない。そして本当の宇宙とは人類のセンスデータに依存している。つまり、科学とは、我々のセンスデータを延長させて生きるという目論見、意志の表明でしかない。
 これは命題論理学を考えてもいいし、つまるところヒルベルト主義の内包したことでもあり、日本の哲学志向の馬鹿たれたほとんど誤解しているゲーデル自然数観でもある。つまり、命題はそれが真偽を決定する空間に依存している、とも、いえるが、命題それ自体がその空間セットの定義でもある。自然科学理論とは基本的にこのトートロジーしか意味していない。のに、これに先に触れた、真実の宇宙への素朴な希求が含まれがちになるのだ。くだどいが、天動説もニュートン力学も100%正しい。アインシュタイン特殊相対性理論も100%正しい。トートロジーだからだ。
 しかし、自然科学が企図しているものは、本当の宇宙であり人類のセンスデータの拡張なので、そこから、すべての命題をフラットにした反証可能性を持って自然科学とするという提言が出てくる。ここで注意しなければいけないことは、反証可能性それ自体が時間の可逆性を含み混んでいることだ。つまり、そこにも我々人類の「生」の意図が含まれている。が、まぁ、そんなことはどうでもいいとしよう。
 ある命題が自然科学的な命題であるかは、この宇宙で反証可能的であるかだ。そして反証可能な命題の集合は妥当な宇宙モデルを作りかねないが、その基礎は全くの無だ。
 サイコロを振る。1の出る確率は、トリビアの泉ではないが、正確に1/6ではない、が、それはトリビアの泉であって、モデル的には、1/6となるかに思える。が、ここで、「サイコロをふって1の目の出る確率は1/6」という命題は、どのように反証されるのか?この冗談でわかるように、反証はできない。
 およそ、確率は時間の可逆性を先験的に含み混んでいるもので、それが自然科学の基礎になっている。と、ここで気が付くべきなのだが、量子力学的な宇宙モデルはこの確率を含んでしまった。
 話がめんどくなったので、中断。

安藤ゼミナール同窓会

先生の論文集「マックス・ウェーバー研究」の後書きの中で、種々の戦争体験を述べておられますが、敗戦直後の沖縄での御体験は特に印象深いものと思われます。先生は宮古島沖での掃海作業に通訳として参加されたのですが、ある米軍将校との対話が報告されております。そのとき先生は原爆の事を話題にされたのですが、はじめその話題を避けていた将校がやがてガックリと首うなだれてこう言ったとのことです。「原爆投下はアメリカの歴史に拭うことのできない汚点をつけた」「あれはわれわれの罪である」。こうして彼は先生に対して、そして日本国民に、許しを乞うたとのことです。あの敗戦直後の事であり、先生は異様な感動を受けたと述べておられます。この時の深い感動が、先生にアメリカにおける近代市民社会の不滅の文化遺産を確信させたとの事でした。「(この体験にこそ)ウェーバーがくどいほどくり返した〝客観性〟〝ザッハリッヒカイト〟(即事性)すなわち〝ヴェルトフライハイト〟(価値感情に囚われない自由な精、神)の見事な実例を見ることができたと思った。後にこの精神の原点を求めてウェーバーと共に予言者の世界にまで関心が伸びていった根本動機には、この時宮古島沖で受けたショックが潜んでいるとこのように先生は述べておられます。
 今ひとつ、先生の「ウェーバー紀行」のなかから印象深い一節を思い起こして置きたいと思います。先生はヤッフェ未亡人つまりリヒトホーフェン女史と会見出来たことを、最大の喜びと表現しておられます。会見された当時は既に95歳の御高齢でしたが、その昔ウェーバーの最初期の女子学生であり、終生彼女の夫共々ウェーバー夫妻と親しかったと言われている方です。そのリヒトホーフェン女史の証言として次のように述べられておりました。「私が丁度研究を始めた時、ウェーバーは私にこう言ったものです。〝君が真っ先に読むべき本は、アダム・スミス、リカルドー、それにマルクス資本論〟だと。そう言って彼は分厚い三冊の本を自分の書庫からとり出してきて私に貸してくれました。」と。このエピソードは、勿論、ウェーバーの学問の根底にあるものを示唆しているだけでなく、安藤先生御自身が私共に、社会科学に向かいまず何から出発せねばならぬかを教えてくださったものと理解いたしております。

VOA Wolfowitz: US Troops May Be in Iraq for Years

Deputy Defense Secretary Paul Wolfowitz says it's "entirely possible" that U.S. troops could stay in Iraq for years to come.
 In testimony Tuesday before the House Armed Services committee, Mr. Wolfowitz rejected assertions that the military is "stuck" in its Iraq mission. But he said he did not know how long it would take before Iraqi troops can provide adequate security for the country.
 Mr. Wolfowitz said when the Iraqi government assumes responsibility for security with some U.S. help, the coalition's mission in the country can be considered a success.

 なんだかなぁ。

石鹸

 手作り石鹸というのもアレだが、なぜみなさん、石鹸なんか使っているのか?途上国でもあるまいに…とかかましたりして。米国でも石鹸か? 米国って内部は途上国だしとかふかしたりして。
 ようするに、アミノ系を使うほうが肌にはいいと思う。特に、ある種の日本人には。つまり、ミノン。

ブログ観察

 exciteブログが開いたとき、女が多いと思ったが、livedoorもけっこうなもののようだ。何故か? っていうか、女をポータルで囲っておいてブログっていう線なのだろうが、このマーケットを運営側はなぜもっとうまく使えないのか?
 exciteなどアホーなコンテンツに金だすより、ブログ間のコミュニケーション機能をアップしたらいいのに。
 同じことは、はてな、にもいえるだろう。オタクとまではいかないし、まだ発展の余地はあるにせよ、ジミ過ぎ。

モブログ

 極東ブログが無粋極まるのでモブログでも設置するかと思ったが、ま、そういうブログでもないしな。
 はてなのこっちにモブログを付けることもできない。
 っていうわけで、ブログのニーズは飽和して消滅じゃなくて、今後多様化してもそのニーズが吸収できるなと思う。
 マス的に見ると、モブログとコミュニケーションツールをどう合体かさせるかだが、ケータイ・マーケットはそれなりに潤沢な上にあぐらをかいているから、期待薄。反面、MT系なりのブログはあまりにキーボード文化に固着しすぎ。
 出会い系っていうのもほとんどアレだが、このあたりに、可能性のあるニッチはあるはずだが。

東亜日報 イラクの指導者も人質解放を訴えているのに

イラクスンニ派の指導者協議体である「イラクムスリムウラマー協会」も、金氏の解放を促した。イラク人までもが金氏の解放を要求しているということは何を意味しているのか。民間人の拉致と殺害、脅迫は人道的に許しがたいだけでなく、イラク問題の解決に決して役に立たないという意味ではなかろうか。犯行グループはイスラムのために戦っているとすれば、少なくともイスラム指導者の勧告に耳を傾けるべきだ。

 理性を外していう、日本人三人組馬鹿野郎!
 そして、この韓国の見解を私は尊ぶ。

金鮮一さん、殺害される

アルジャジーラ放送は金さんの処刑場面を含んだビデオテープも同時に入手したと明らかにしたが、この日、公開はしなかった。

 こうした経験が民族の経験を分け、そして民族を分けていく。非情な日本人!
 日本人であるためには、ある程度日本人への罵倒に絶える心を養っていかなくてはならない。金鮮一の命のために、私は、そう思う。

essa 社会科学の方法論は「モダンな科学的アプローチ」に集約されつつあるか

 私が答えるべきか? そんなことはないだろうな。
 ヴェーバーの議論をうまく他分野に伝える努力をヴェーバーリアンはしてこなかった。

北鮮の核はなんのためにあるのか?

 昨日コメントで山中さんから「アメリカは何百発も核爆弾を持っていて、それを北朝鮮に向けている。短絡的にたとえると、機関銃を相手に向けながら「拳銃を捨てろ」と言ってるようなもので、北朝鮮の核開発と同じくらいアメリカの核保有を問題にすべきだと私は思うんです。」と指摘を受けた。
 これには同コメント欄でその場の回答を書いた。「1,米国の核は実際には利用できない。2,自由主義諸国間では戦争事体が自国内のフィードバックがきくために発生しにくい、と。つまり、そうした現実から考えて、つまり、現実から核を減らすという方向で考える、というのが、取りあえず、現状の政治学者たちの前提だろうと思われます」と。
 少し別の角度で言い忘れたことがあった。
 北鮮の核はなんのためにあるのか?
 端的に言えば、北朝鮮の人民を抑圧するためにある。シモーヌ・ヴェイユの公理と言ってもいいだろう。冷戦的構造の戦力とは、国家に恐怖をもって人民を封じ込め、国家の名のもとに死を命じるためのものだ。
 以前も書いたが我々自由主義国家の所属民は今世紀に第二のアウシュビッツがあるのを放置しているという罪を負っているのかもしれない。
 米国の核は、米国民が本気なら解除できる。だとすれば、現状、反核勢力は米国民に解き明かす努力をすべきだ。
 が、米国の核下にある日本人の発言はナンセンスだ。
 であれば、日本は米国の核下から出るべきだろう。が、ここで、核下を出ればどうなるか、あるいは、どうなりうるかは、歴史が諭している。理論でも理念でもない。歴史を見つめなくてはならない。
 反面、北鮮の核を廃棄できるのは、その人民ではない。

日経社説 シナ海の資源調査着手を

 仮に李外相の共同開発提案がこの海域の共同開発を狙っているとすれば、かなり虫のいい話ではある。いずれ中国が中間線日本側の試掘を始めるのではないか、との懸念の声も聞かれる。政府はまず日本側海域の資源調査を始めるべきだ。手をこまぬいていれば、中間線をもってお互いのEEZを画定しようとする日本の正当な主張までが、ないがしろにされかねない。

 正論だが、そうもいかない。
 問題は利権より、これを中国ルールじゃないくて世界ルールにどう乗せるかということなのだ。資源など誰が掘っても、長期的見ればどってことない。井戸の守りみたいなものだ。問題はあくまで市場なのだが、どいつもこいつもヘンテコなナショナリズムの主張ばっかしというか、くどいが中共が中国民の利益代表と見がたい点が問題だ。
 露骨にいうと、中共が実質崩壊するまでこんな資源、寝せておけ、とはいかないか。

毎日社説 社説:人身売買報告書 米国の指摘はもっともだ

 毎日のこのタイトルといい中身といい、脱力。わかってんのか? っていうか、これって裏は左翼? 

 しかし、相対的なクラス分けはともかく、外国人女性らの被害が大きく、組織的犯罪集団であるヤクザが関与している、との指摘には耳を傾けざるを得ない。実際に現在二十数万人いる国内の不法滞在外国人には、アジアや中南米、東欧諸国から来日して風俗営業に従事している女性が多いからだ。

 これがどうして人身売買として議論されるかきちんと説明したほうがいいよ、毎日新聞

読売社説 [私大破綻]「台所のチェックが必要だ」

 よくわかんないのだが、日本の大学でかすぎだと思う。小さく細かくするといい、というか、放言だが、全部田舎に寄宿舎付で移転したら…ってそれって筑波じゃん。筑波って学生恋愛のじ・ご・く。

朝日社説 比例区――参院はプロレスの府か

 プロレスラーは実力の世界を生き抜いてきた。その厳しい経験は議員活動に生かせるのかもしれない。

 とか言いながら、朝日はプロレスラーを小馬鹿にしているのだが、プロレスラーを小馬鹿にするオメーラのほうが256倍馬鹿だぜ。

朝日社説 ガス田開発――日中協力の芽はある

 これは大筋で正しい。詳細には問題だらけ。問題の根幹は共産党

 中国がエネルギーを安定的に確保することは、日中が中東原油の奪い合いをして値をつり上げるといった事態を避けるためにも、中国に進出した日本企業のためにも大事なことだ。

 逝ってよし、ってやつだな。